新宿大通り
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新宿大通りの歴史
序章
第一章 江戸時代
第二章 明治・大正
第三章 戦前・昭和10年前後
第四章 戦時中〜昭和三十年代
第五章 〜現代
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新宿大通りの歴史

第五章 〜現代 新宿大通街の復興から繁栄へ

[1] 戦前のレベルに追いつき、追いこせの時代
[2] 中央通り商店会との意欲的な合併
[3] 三十年代に入って本来の姿にもどる
[4] 大衆の消費性向が食べ物より物品へ
[5] 商店会が直面した三つの大きな問題
[6] 売春防止法実施と地下鉄丸の内線の開通


[6] 売春防止法実施と地下鉄丸の内線の開通

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昭和26年頃の新宿二丁目赤線区域
昭和26年頃の新宿二丁目赤線区域
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(アルス社『新東京案内』より)
昭和32年から地下鉄工事がはじまって
昭和32年から地下鉄工事がはじまって
新宿大通りも少なからず影響を受ける
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(中村屋提供)
地下鉄工事協力を呼びかけたパンフレット
昭和33年に商店会が配布した、
地下鉄工事協力を呼びかけたパンフレット
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より

 次に、新宿大通りの商店街に大きな影響を与える問題として登場したのは、売春防止法の制定(昭和31年)である。

 近代国家の体裁としていずれは行わなければならなかったことだが、新宿にとってみると、260年前のこの大通りが生まれたそもそものきっかけが旅宿による売春であったし、その長い歴史を支えてきたのも、またこの種の施設だったという因縁がある。もちろん近代に入って、そのウエイトは次第に低くなった。昭和30年頃、新宿繁華街の全店舗に対する割合は、二丁目の遊郭軒数とそれに関連して利益を得ている店舗を含めて、ほぼ20%である。防止法の発効とともに、いわゆる新宿の盛り場といわれた二丁目と三丁目の地域のほぼ四分の一が急速にさびれていったことは否定できない。

 新宿二丁目にあたる大通り関係でみると、昭和32年から着工された地下鉄工事の影響も重なっているとはいえ、軒並み30%から40%の売上げが低下した。

 いずれにしても、建て前としても反対できる性質の問題ではないから、新宿大通りとしては防止法施行によって生じた影響をいかに吸収するか、もしくは回避するかが問題になる。多くの店舗は廃業して貸オフィスにするか、もともとの地域客を手堅く守って伸ばすか、地の利に比較的影響の少ない特定客を相手とする専門店、もしくは卸売業に転進するかを選んでいる。こうして、都心と新宿をつなぐ大通りといった性格で安定していった。
しかしながら、この時期を境目にして新宿へやってくる客層は、新たな歓楽を求めて新宿駅により近い歌舞伎町へ向けて流れていくようになる。昭和三十年代に入ってからの歌舞伎町界隈の急速な発展ぶりには、驚嘆すべきものがある。売春防止法以降、当時の新宿の約四分の一に近い盛り場地区をなくしていた新宿二丁目を中心とした地域が、いわゆる古い世代の歓楽地区として捨てられた。時の勢いとはいえ、新宿全体からみるとこの地域をエアポケットのまま残してきたということにもなろう。売春防止法が新宿に残した課題は、まさにこの地域をもう一度どのような形で盛り場に復帰させるか、なのである。

 さらに昭和32年、新宿大通りの真下を貫く地下鉄として丸の内線が着工されたことも、決して無視できない問題を新宿大通街に投げかけた。
これは、東京全体の都市計画と新宿へ集中する流動人口対策として不可欠なものだったが、新宿大通りとしてはその受け入れ方が問題だったのである。基本的に新宿全体としては決して流入人口を拡大する性質のものではなかったが、問題は新宿大通りの商店街がどのような形で吸収して、プラスにするかという点にかかっていたのである。


その当時の伊勢丹の広告 昭和33年の新宿区商業観光まつりに協賛してパレードを展開
昭和34年3月、地下鉄丸の内線開通。
その当時の伊勢丹の広告
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(伊勢丹提供)
新宿大通商店会の活動も次第に熱を
おびてくる。昭和33年の新宿区
商業観光まつりに協賛してパレードを展開
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
 
昭和34年新宿区商業観光まつりのパレード 昭和35年新宿区商業観光まつりのパレード
昭和34年新宿区商業観光まつりのパレード
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
昭和35年新宿区商業観光まつりのパレード
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
 
昭和35年歳末の街頭装飾
昭和35年歳末の街頭装飾
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より

 大通商店街の対応の仕方は、大きく分けて二つ。一つは、新宿二丁目の地域で流入人口減少をくい止めるため、地下鉄駅の出入り口を設けようとする動きである。出入り口に必要な土地の地元有志の共同購入とその提供によって、はじめて新宿御苑前駅が実現したのである。

 もう一つは新宿駅とつなげることを予定して、追分交差点までを通す「メトロプロムナード」に対する運動である。これは地上の混雑を緩和するのに有効な施策だったが、結局は、ある程度資力に余裕のある店舗が出入り口をつけるといったことで終わっている。その後、地下商店街が各地につくられ、それなりに成功していること、また新宿大通り自身、昭和三十年代後半から高層ビル建築ラッシュ時代を迎えていること、さらに今日の新宿大通りが地上の交通ラッシュのため行き悩んでいることなどを考えると、このメトロプロムナード(昭和34年完成)計画は、新宿大通りにとって一時代早過ぎたともいえよう。

 いずれにしろ、昭和二十年代から三十年代にかけて、新宿大通商店街に大きな影響をもたらした問題は、一つは新宿駅ビルにまで大通商店街の内容をつなげる形となって成功し、一つは売春防止法の影響を受けたものの何とか回避し、最後の一つは惜しいチャンスをとり逃すといった形で決着している。そして、新宿二丁目を中心とした地域の再開発の問題と、新宿大通りを今後より多元的に生かしていくという問題を残し、次の時代につなげたのである。


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[1] 戦前のレベルに追いつき、追いこせの時代
[2] 中央通り商店会との意欲的な合併
[3] 三十年代に入って本来の姿にもどる
[4] 大衆の消費性向が食べ物より物品へ
[5] 商店会が直面した三つの大きな問題
[6] 売春防止法実施と地下鉄丸の内線の開通

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